LOGIN研究所の最奥へ続く通路は、培養槽や部品庫の並ぶ区画とは空気そのものが違っていた。壁を這っていた魔力管は途中で途切れ、天井の灯りもほとんど死んでいる。代わりに床へ厚く積もった埃が足音のたびに薄く舞い、古い紙と乾いた薬品、それから長い年月を経た骨の匂いが、冷たい空気へ沈んでいた。リュゼルが灯石を掲げると、光の輪の外側では倒れた書棚や錆びた器具の影が人の姿のように伸び、フィオルはその間を歩きながら、いつになく口を閉ざしていた。「この辺り、覚えてるのか」リュゼルが尋ねると、フィオルは少し遅れて頷いた。「何回か来たよ。先生が胸を直す時、ここまで連れてきた。でも途中で眠くなる薬を入れられたから、奥はあんまり見てない」「その先生って、最後まで残っていた錬金術師?」ネフィリアの問いに、フィオルは胸元へ手を置いた。衣服の下には、細い亀裂を抱えた《賢核》がある。「うん。みんな動かなくなったあともいた人。僕の手とか脚とか、胸も何回か直してた。朝になったら先生も動かなくなってて、心臓を交換しても駄目だった」イセラの耳がわずかに伏せられた。フィオルは以前と同じ出来事を話しているだけなのに、その口元にはもう笑みがなかった。悲しい時は笑うものだと教えられていた少年が、少なくとも今は、自分の表情を無理に作ろうとしていない。その変化をリュゼルは言葉にせず、ただ歩幅をフィオルへ合わせた。通路の突き当たりには、周囲の金属扉とは異なる木製の扉があった。長い年月で乾き切り、表面には無数の細かな亀裂が走っている。イセラが先に近づき、耳を澄ませてから鼻先をわずかに上げた。「中に生きてるものはいない。骨の匂いが一人分。紙と油、それに古い血も少し残ってる」フィオルの足が止まった。「先生、まだいるんだ」リュゼルは扉へ手を掛ける前に振り返った。「入らなくてもいいぞ」「行く」返事は短かった。橙色と翡翠色の瞳には迷いがある。それでもフィオルは逃げず、胸元を押さえたまま一歩前へ出た。扉を開くと、乾いた蝶番が低く軋んだ。部屋は思ったより広く、壁際には金属製の書庫が並び、中央には大きな机が一つ置かれている。その机へ、白骨化した老人が突っ伏していた。白衣だったと思われる布はほとんど朽ち、背骨と肩甲骨の上へ灰色の繊維だけが残っている。片腕は胸の下へ折り畳まれ、もう片方の骨ばった手は、机の端に置かれた
研究所へ向かうことが決まったのは、フィオルの賢核に走る亀裂を確認した翌朝だった。ネフィリアが古い王家の記録を何冊か引き出し、人工魔力炉の修復に関する記述を探したものの、残されていたのは構造の概要と危険性についての記録ばかりで、実際の補修方法までは分からなかった。賢核は心臓だけではなく、記憶と魔力循環と身体維持を同時に担う。外側の関節や人工骨のように、似た素材を削ってはめ込めば済むものではない。製造に使われた術式、核を構成する鉱石、魔力配列、過去の修復記録、そのどれか一つでも見つかれば可能性は上がるとネフィリアは言った。「僕がいたところの奥にあるよ」フィオルは食事の途中で、干し肉を噛みながら何でもないことのように言った。リュゼルが顔を上げる。「何が?」「作った場所。洞窟からもっと下に行くと研究所がある」「昨日は三日くらい先に部品庫があるって言ってなかったか」「あれも研究所の一部だよ。僕が使えるところだけ部品を持ってきてた」ネフィリアの手が止まった。「賢核を作った設備も残っている可能性がある?」「たぶん。先生は胸のやつを直す時、いつも奥の部屋へ連れていってた」フィオルは自分の胸へ手を当てる。そこにはまだ《試作第十三号》の刻印がある。その番号を本人は気にしていないように見えたが、前夜から何度も自分の名前を口にしていることをリュゼルは知っていた。「なら行く」リュゼルが即座に言うと、ネフィリアが紫紺の瞳を細めた。「全員でね」「俺もそのつもりだった」「今の返事は信用しておくわ」イセラは椅子の背へ寄りかかりながら、フィオルを見る。「道は覚えてるのか」「途中までは」「途中まで?」「研究所、時々道が変わるから」「どういう意味だ」「扉が勝手に閉まったり、床が沈んだり、壁が増えたりする」イセラの顔が露骨に険しくなる。「それを先に言え」フィオルは悪びれず笑った。「聞かれなかったから」その返答にリュゼルとネフィリアが同時に額へ手を当てた。城を出たのは、それから一刻ほど後だった。今回はフィオル本人も同行する。道案内が必要だからという理由だけではなく、自分の賢核に関する記録を、本人を置いて探しに行くべきではないとリュゼルが考えたからだ。ネフィリアも反対しなかったが、戦闘で自己修復を使わないこと、危険があっても自分を囮にしないこと、勝手に
フィオルが城へ来て二日目の朝、広間の長卓は食事ではなく工具と布で埋まっていた。細い鉗子、磨いた金属板、魔力を測るための古い結晶針、灰牙の荷物から見つけた小型の灯石、それからネフィリアが王域の倉庫で発見した深淵王家時代の診察具らしきものまで並んでいる。フィオルはその中央で上衣を脱ぎ、卓上へ腰掛けていた。淡い金緑色の髪が肩へ落ち、白い胸元には首から腹部へ向かっていくつもの細い接合線が走っている。本人は緊張するどころか、自分の身体を調べられることを珍しい遊びのように感じているらしく、ネフィリアが道具を並べるたびに横から覗き込んでは、それが何に使われるのか質問していた。「動かないで」ネフィリアが結晶針を胸部へ近づけると、フィオルは素直に両手を膝へ置いた。ただし右腕は昨日の戦闘で大きく損傷したままで、指の動きもぎこちない。応急修理だけで城まで戻ったため、手首を回すたび接続部から小さな金属音がしていた。「これ、刺すの?」「刺さないわ。魔力の流れを見るだけ」「刺してもいいよ」「よくない」リュゼルが横から即座に口を挟むと、フィオルはそちらを向いて笑った。「でも、痛くないかもしれないよ」「そういう問題じゃないって昨日も言っただろ」「昨日も怒られたね」「覚えてるならやめろ」フィオルは楽しそうに頷いたが、その反応が理解したからなのか、単にリュゼルが怒ることを一つの現象として記憶しただけなのか、まだ判断はつかない。少し離れた壁際ではイセラが腕を組み、子どもたちが勝手に近づかないよう見張りながら、こちらの様子を窺っていた。シュカたちも気になって仕方がないらしく、回廊の角から何度も顔を出している。「普通の人間なら、ここに心臓がある」ネフィリアはフィオルの左胸へ指先を当てた。鼓動はない。皮膚は温かく、血も流れているのに、人間の身体なら必ず感じられる拍動だけが存在しなかった。「フィオル、自分の中に何があるか知ってる?」「たぶん賢核」答えは早かった。「先生がそう呼んでた。胸の奥にあって、止まると僕も止まるって」リュゼルの眉がわずかに寄る。「止まったことは?」「ないよ。だから僕、死なないと思ってた」昨日と同じ調子だった。死という言葉に恐怖がなく、ただ未知の仕組みについて話している声だった。ネフィリアは接合線の一部へ細い金属板を差し込み、慎重に留め具を外し
フィオルの新しい右腕が完成したのは、洞窟を出る予定時刻を二刻ほど過ぎた頃だった。部品庫まで三日歩く必要があると言っていたが、爆発で散った古い腕の中にも再利用できる金属輪や導線が残っており、リュゼルの背嚢に入っていた工具と、ネフィリアが影で削り出した小さな金属片を組み合わせれば最低限の修復はできたらしい。肘から先だけ色合いがわずかに違い、手首の接合部には剥き出しの銀線が一本残っている。それでも五本の指は滑らかに開閉し、フィオルは何度も拳を握っては、初めて手を手に入れた子どものように楽しそうに眺めていた。「今度は爆発しないんだろうな」洞窟を出る直前、イセラが念を押した。フィオルは自分の右手を目の高さまで持ち上げ、手首を一周回してから首を傾げる。「たぶん」「たぶんをやめろ」「爆発する部品は外したよ。だから大丈夫だと思う」「思う、も不安になるな」イセラが露骨に嫌そうな顔をする横で、ネフィリアは完成した腕を観察していた。接続部から漏れていた赤い液体は止まっており、先ほどリュゼルが巻いた布も外されている。錬金生命体の身体がどういう仕組みで動いているのか、彼女にもすべては分からないらしい。「少なくとも、魔力の循環は安定しているわ」「じゃあ使っていい?」フィオルが尋ねる。「歩いたり物を持ったりする程度ならね。自分で千切って投げるのは禁止よ」「分かった」「本当に?」「今は投げない」「今は、を付けないで」ネフィリアが額を押さえる。リュゼルは思わず笑いかけたが、フィオルが本気で条件を理解しようとしている顔をしていたため、すぐ口元を戻した。悪戯をやめさせているのではない。この少年には、自分の身体を壊すことが危険だという前提そのものがない。何が許され、何が許されないのかを一つずつ言葉にしなければならないのだろう。城への帰路は、往路より慎重に選んだ。フィオルを加えたことで歩調が変わり、彼がどの程度連続して歩けるのかも分からない。ところが本人は疲労らしいものをほとんど見せず、イセラの後ろを軽い足取りでついてくる。時折、岩壁から突き出した鉱石や地下茸に興味を示して勝手に寄り道しようとするため、そのたびリュゼルかネフィリアが呼び戻した。「これ食べられる?」フィオルが紫色の茸を指差す。「毒だ」「食べたらどうなる?」「普通の人間なら口と喉が腫れて息ができなく
爆発の煙が洞窟から完全に消えるまでには、しばらく時間がかかった。焦げた金属と薬品の刺激臭が湿った岩肌へまとわりつき、床にはフィオルが投げた右腕の破片が散らばっている。白い人工骨らしき欠片、細い金属線、ひしゃげた関節部品。その中心に座ったフィオルは、自分の腕が一つなくなっていることなど大した問題ではないように、左手だけで破片を一つずつ拾い集めていた。爆発を起こした本人が一番落ち着いているという異様な光景に、イセラは湾曲刀へ添えていた指をいつまでも離さず、ネフィリアも少年の細かな動きを観察するように紫紺の瞳を細めていた。「敵意はないみたいだな」リュゼルが低く言うと、イセラは鼻を鳴らした。「敵意がないまま人を吹き飛ばす奴のほうが面倒だ」「それは否定できない」フィオルは会話を聞いているのかいないのか、床から拾った金属片を光に透かしている。欠けた部品を使えるものと使えないものへ分けているらしく、使えないと判断したものは自分の横へ無造作に積んだ。その肩口から肘へ続く接合線には薄い赤色の液体が滲み、少しずつ腕を伝って腰の布を濡らしている。血だけではないと本人は言っていたが、人間の出血によく似ている以上、リュゼルには放置する気になれなかった。「フィオル、その腕を見せて」「腕?」少年は自分の右側を見てから、そこに腕がないことを思い出したように目を瞬いた。「肘のほうだ。液が漏れてる」「ああ。まだ閉じてないからね」「止める」リュゼルが背嚢から布と薬草を取り出すと、フィオルは不思議そうに首を傾げた。拒否する様子はないものの、自分へ何かをしてもらう理由が理解できていない顔だった。「どうして?」「どうしてって、壊れてるから」「直せばいいよ」「だから、今その前に漏れてるものを止めるんだ」「あとで部品をつける時に全部開けるよ?」「それでもだ」リュゼルはフィオルの前へ片膝をついた。接続部分へ近づくと、金属と人工骨の隙間に人間の筋肉へ似た淡い赤色の組織が見える。完全な機械ではない。生きた組織と錬金術の素材をつなぎ合わせて造られているらしい。触れる前に一度フィオルへ視線を上げた。「触るぞ」「うん」許可を得てから周囲の汚れを布で拭う。赤い液体の一部は血で間違いないらしく、温度もある。フィオルはリュゼルが傷口を洗っている間も眉一つ動かさず、むしろ何をしているのか
死者溜まりへ向かう経路は、これまでより大きく北へ逸れていた。骨が壁面を覆い始める手前で古い水路跡へ入り、そこから地下へ潜らず、死者溜まりを円状に取り巻く外縁部だけを調べる。地図の上では遠回りにしか見えない道だったが、ネフィリアは朝から一歩も譲らなかった。三日前まで意識を失い、今も知らない死者の声を時折聞いている人間を、再び何百何千という残滓の集まる場所へ連れていくつもりはないと断言され、リュゼルも今回は強く反論できなかった。自分でも、寝台から起き上がった瞬間に見知らぬ男の《娘に会いたい》という声を聞いた時の感覚が消えていない。死者に近づけば何が起こるのか分からない以上、食料や安全な経路を探す目的さえ果たせるなら、深部へ固執する理由はなかった。「本当は一人で深部へ行くつもりだったでしょう」歩き始めてしばらくした頃、ネフィリアが何でもないことのように言った。リュゼルは背嚢の紐を肩へ引き上げながら横を見る。彼女の紫紺の瞳は前方を向いているが、問いというより確信に近い声音だった。「思っただけだ」「思った時点で駄目よ」「行ってない」「私たちに黙って抜け出す前に見張っていただけでしょう」前を歩いていたイセラの黒豹の耳がこちらへ向く。「こいつ、夜中に起きて地図見てたぞ」「イセラ」「何だ」「告げ口するな」「お前が三日寝たせいで城の見張りまで増えたんだ。今度勝手に倒れたら縄で寝台に縛る」「それはネフィリアが本当にやりそうだから冗談に聞こえない」「いい案ね」「採用するな」そんなやり取りをしていても、三人の歩調は乱れなかった。イセラが先頭で風と匂いを読み、リュゼルは岩肌に残る罠や足場の変化を確かめ、最後尾のネフィリアが薄く広げた影で背後を警戒する。死者溜まりの外縁とはいえ、奈落の深層であることに変わりはない。壁には古い掻き傷があり、時折、何か大型の魔物が這った跡も見つかる。それでも骨そのものは少なく、リュゼルの墓碑紋も微かな熱を持つ程度で、頭の中へ飛び込んでくる声はほとんどなかった。一時間ほど進んだところで、イセラが急に足を止めた。「何かいる?」ネフィリアが声を落とす。イセラは答えず、細い通路の中央へしゃがんだ。灯石を持つリュゼルも近づく。黒灰色の石床には薄い砂が積もり、その表面にいくつもの足跡が残っていた。四足獣ではない。踵と指の形がある、人型